何故でしょう?洗顔の後歯を磨き「やだ、顔洗うの忘れた」と思いまた洗顔し、更にまた歯を磨く。
最近そんなんばっかです。メイク中もチーク塗ってないと思って塗ると異様に濃くなって「…………あ……れ? 塗ったんだっけ?」みたいな事多くてホント困ります。…………アルツハイマーって若年性のも確かあるんだっけ………………。
ま……まさか!?ガタガタブルブルさて、今日は遂に三回目のブレスト観賞に行って来てしまいました~。
ここまでくるともう半分アホやな……マジ早く
DVD出ろやコルァ!!ゲフゲフ、いや~
萌えた萌えた♪ まぁさすがに三度目ともなると私的分析もお手の物ですよ。
映画版でのラスト、ミツル・アヤ復活が原作ではなく、恐らく死んだままになっているという死亡説をネットで見てからは、全く原作に手を付ける気が起きなかった倉澤ですが、三回見て何となくですけど色々な見方が変わってきました。
映画の中でもワタルが、自分自身で運命を越えて行きたいみたいな事言ってたじゃないですか。人生は大半が思い通りにならない事ばかりで、何の代償もなく手に入る物など皆無に等しく、且つ代償を払ったとしてもそれ相応の物を手に入れられる保障もない。
それでも手に入れたい何かがあるから人は努力を惜しまないし、向上していく力になる。
たった一つの希望に縋るワタルとミツルの姿は人の人生そのものなんですよね。他の全てを顧みずアヤの生存だけを求め、才能に恵まれながらも願いを手にする事の出来なかったミツル。想いの全てを賭けた行為の代償に死の淵に立ち自らの過ちに気付かされ、一方のワタルは旅人としての能力は凡庸でも、思い遣る気持ちに秀でているからこそ旅を乗り越え運命の塔に辿り着けたんだと思うんですよね。ワタルの戦闘能力って低いし、言ってみれば運と仲間の協力があったからビジョンで生きてこれたようなものじゃないですか。
ワタルはミツルが見ようともしなかったビジョンの現状、そこに生きる人々の温かさや強い想いに触れたからこそ無事宝玉を集め、ミツルの元に追いついた。ワタルの成長はビジョンに生きる仲間達とミツルの存在があったからこそ。もちろんオンバの助言もですけど。
でも自分以外を見ず信じないミツルは自らを死に追いやった敗者。助言や協力に頼ったワタルは勝者となる。
映画では最後ミツルとアヤが学校に転校してきてほのぼのと終わりますが、願いの選択や原作の死亡説はシビアなリアリズムなんですよね。敗者がどんな扱いを受けるかは、歴史でも分かるように凄惨なものなんです。どんな強い想い・純粋な願いがこもっていようとも、自分自身でもある影を殺し宝玉集めに失敗してしまったミツルは敗北者以外の何者でもないんですよね。敗北は時に取り返しのつかない事態を招くもので、勝負や結果は関係なくその過程で何を得たかが重要だって考えは、経験値を積む余裕のある場合の話しであって、勝負の行方によっては生死を分ける事もあり、よってミツルの死もアヤが甦らないのも当然の事なんです。
でも人間は一握りの希望に縋らなければ生きていけない生き物だから、ワタルのように願いを叶える為頑張ればそれが実になり力になるって信じていたいんです。運命の女神様の叶えてくれる願いは一つだけで、ビジョンから魔物を退けた後ミツルが現実世界にアヤと共に復活しているのはよくよく考えればおかしな話しです。出来る事と出来ない事、どうにもならない運命や悲しみを自分はどうすれば受け入れる事ができるのか……ワタルがビジョンの旅で学んだ運命を受け入れ、乗り越えていく心の強さ。映画版でのミツル・アヤ生存は、それを自身の手で見つけ出し、家族以外の誰かの為に無償の勇気と正義を揮えたワタルへの女神様からのご褒美ではないかと思います。
倉澤は映画版のワタルが頑張った分希望を手に入れられたラストが大好きですが、原作のシビアな世界観もいつか私自身受け入れられるようになれば良いなと思ってます。
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